人は自分が意味づけした世界に生きている『アドラー心理学入門 著 岸見一郎』
本の概要
著者の岸見一郎氏がアドラー心理学を用いてどうしたら幸福に生きられるかということを説明している。
精神的に「健康な人間関係」と「健康を損なう人間関係」の違いがわかり、
人とかかわっていく中でも、「自分の期待を満たすための生き方」を教えてくれる本。
勉強になったポイント
ほめることは相手を見下している?対等な関係でしかできない勇気づけとは?
ほめるということは、能力のある人が能力の劣っている人に、あなたは〈よい〉と上から下へと判断し、評価する言葉であるということをみましたが、その時の対人関係の構えは縦関係なのです。
しかし、アドラー心理学では、縦の人間関係は精神的な健康を損なうもっとも大きな要因である、と考え、横の対人関係を築くことを提唱します。
「えらい」「すごい」「よくできました」「やればできるね」
このようにほめられると、相手に上から言われているように感じて不愉快になるときがありますよね。
ここでは、ほめる人側の対人関係の構えが、相手の精神的な健康を損なうものなので問題だということを言っています。
では、ほめるに対する方法あるのか?という疑問に対する答えは勇気づけです。
勇気づけとは、相手が自信をもつように援助することです。
つまり、評価するのではなく、喜びなど自分の気持ちを伝えること。
ほめる人は相手に対して理想をもっている場合があるので、(ほめることで相手の行動をコントロールしたいなど)
勇気づけのときは、理想を基準にするのではなく、目の前にいる相手を基準にして感じたことを言葉にするということが大切。
「いてくれてありがとう」「助かる」「うれしい」など相手の存在自体を肯定するような言葉が勇気づけなのかなと思いました。
過剰な手出し口出しをする人について
子ども自身が自分の力で人生の課題に立ち向かう援助をしなければなりません。これも勇気づけということができます。
アドラー心理学では「これはだれの課題か」という言い方をします。誰の課題かは最終的に誰が責任を引き受けなければならないかを考えればわかります。あるいは、ある選択の結末を誰が最終的に引き受けるのかを考えればわかります。
ほめる人と同様で、過剰な手出し口出しをする人の根本の対人関係は、能力のある自分と能力のない相手として成立しているということですね。
また、子供に対して過剰な手出し口出しをすることは、子供の自立を妨げることになります。
では、どうしたらいいのか?
誰の課題かをみきわめるということが大切です。
例えば仕事の場面で、あなたの目の前にいる人がたくさんの仕事を抱えていて、あなたの手が空いていたので手伝おうと思ったとします。
手伝いがいるかどうか、ひと言声をかけて相手が断ると、それは相手が責任を引き受けていることになります。そこで頼まれてもいないのにそこに無理やり手伝おうとするのは、暗にあなたが相手には能力がないと言っているようなものなのです。
手伝いたいと思うのはあなたの課題ということです。その気持ちはなにかのせいにしてはいけません。
相手から手伝ってほしいという依頼があって初めて共同の課題にすることができます。
これが対等な人間関係ということなのです。
参考p94
言葉による問題解決を図らないことについて
一喝したら済むのではないか、と考える人もあるでしょう。しかし、その方法はあまりにも副作用が大きいのです。たしかに手間暇はかかりますがあえて言葉を尽くして話し合ってく行くことをアドラー心理学は提案しているのです。
言葉によって問題解決を図らないことの背景には、相手を自分より劣ったものと見なしていて、話してもわからないだろうという思い込みがあるということです。
すぐ怒鳴る人、暴力で問題を解決しようとする人、無視する、話をしても無駄だと思い込むなどは、ほめる人や過剰な手出し口出しをする人の対人関係と同じ性質を持ちます。
言葉で話し合うことは手間暇がかかりますが、対等な人間関係を築くうえでかかせないことです。
共通感覚、私的感覚のバランスをとって「善く」「幸福に」生きる方法とは
コモンセンス(共通感覚)を想定せず、私的感覚の存在しか認めないのであれば、すなわち、あらゆる感覚を主観的事実としてそのまま認めてしまうと、まったくのアナーキーになってしまいます。
そうならないためにコモンセンスを考えるのですが、コモンセンスをただちに先にみたような共同体感覚である、とみることは多数決原理を帰結することになりあまりに危険です。
そこでそれに代わって、社会適応でもなく、共同体感覚でもなく、「善」あるいは「幸福」を私的感覚が単なる私的感覚にならないための判断基準として考えてみようと思います。
人とのかかわりの中で生きている私たちが、共通感覚を排除して主観だけで行動すると きっと大変なことになりますよね。
共通感覚とは相手との共通している感覚、共同体感覚とは共同体の中の多数派の意見 ということだと考えると、
共通感覚は主観だらけにならないためにあるのですが、共同体感覚と共通感覚をイコールとして考えてしまうと、少数派の人に対する押し付けになってしまうので、それもまた問題になることがあります。
社会適応や共同体感覚が個人にとって幸福になるためにはどうしたらいいのか。
幸福かどうかは主観、つまり私的感覚です。それがたんなる私的感覚にならないための判断基準として、「善」または「幸福」かどうかを考えます。
「善」かどうかとは、それが有益かどうか、役に立つかどうかという意味です。
例えば、職場という共同体で、暗黙のルールのようなものがあるとします。
その暗黙のルールに従うことが自分の目的(善・幸福)達成のために有用かどうかを、考えようということです。
他人の「善」は自分のとはまた異なるものなので、価値観がズレていたら話し合いで方向性を決めていくのが、対等な人間関係だということなのですね。
わたしの場合は、気が弱いので不便と思いながらも暗黙のルールに従ってしまいがちなのですが、それは自分が人の下に自ら下っているということでしょうか。また話し合いで解決できないと思い込んでいることから、相手を下にみているということなのでしょうか。
人と人は対等なのですから、人の「善」も考えながら、自分から「善く」生きるために自信をもって意見を伝えて、モヤモヤしている自分の気持ちや課題を解決していきたいと感じました。
参考p113、114、116
自分の人生は誰が決めるの?人生の邪魔をする劣等コンプレックスとは
アドラーは、劣等コンプレックスという語を強い劣等感という意味で使っている場合もありますが、「Aであるから(あるいはAでないから)、Bできない」という論理を日常のコミュニケーションの中で多用するということが劣等コンプレックスの意味です
すなわち、実際には何も因果関係のないところに、因果関係を見出すということですが、そうすることの目的は、自分の行動の責任をほかのものに転嫁することです
アドラーは、「劣等コンプレックスを告白したまさにその瞬間に、生活における困難や状況の原因となっている他の事情をほのめかす。親か家族のこと、十分に教育を受けていないこと、あるいは、何らかの事故、妨害、抑圧などについて語るかもしれない」と言っています。「原因」はいくらでも出してくることができます。
アドラーは原因論とは反対に、広い意味での精神機能、すなわち、感情・心・性格・ライフスタイル・病気・過去の経験・理性・思考などを個人が使うのであって、決して逆ではない、と考えます。そういったものに私たちが支配されるのではなく、それらを何らかの目的のために使う、と考えます。
やりたくてもできないと思っているとき、自分はやらないという選択をしているのが事実。そこにやらない理由をつけるとしたら、責任転嫁しているということです。
それでは、その理由に支配されて、自分で自分の選択の幅を狭めてしまっています。
やりたいことがあるなら、今現在の自分がもっているものによく目を向けて、目的達成のためにもっと使うことを意識したいですね。